空海の史跡を尋ねて・・へんろみち保存協力会さんが編集の地図に記載の霊場の全てを巡拝するべく計画しました。3年前から始めて今回は09.5.24出発し177番目の霊場から続けました。

四国徳島 中津峰山如意輪寺の近くの観音滝に行ってきました
 中津峰山の頂上近くには、いくつもの滝があります。ハイキングコースが完備されており多くのハイカーが訪れています。せっかく如意輪寺まで来たのだから、近くの一箇所ぐらい行きたい。幹さん山歩きの習性が出て地図を頼りに、観音滝に向かいました。
 駐車場を出て谷底に向かって崩れかけたがけ沿いの道を下ること15分、水音はすれども、水は落ちていない滝と思われる巨岩の傍にたどり着きました。
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 雨が少なく少量の水は全て上部で浸透し遥か下流で滲みだしているみたいでした。がけ下を見ると小川が迸っていました。梅雨時には上から滝水が降り注ぐのでしょう。
 岩盤には何箇所か「観音様が安置」してありました。
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 如意輪寺から近いこの滝は、行をする場所として格好の場所だったのでしょう。薄暗い感じの幽玄な雰囲気でした。
 15分掛かって下ってきた道は30分掛かって登り返すことと成りました。崩れかけた石段・倒木・竹の切り株下っているときには大して苦にならなかったのに、やっとの思いで駐車場へ。
 如意輪寺と観音滝の参拝を終えてくだり道。ハイキングの人たちが続々と上がってこられました。人気コースなんだ。
 くだりの途中に如意輪寺の山門と思われる大きな建物があり一寸休憩。
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獅子窟」と書いた額。ここが如意輪寺の歩いて登る参道なのか。
四国徳島 中津峰山如意輪寺にお参りしました。
 四国中央部の山脈地帯から東に張り出し、徳島県の中央部まで770Mの高さの山並みを見せる中津峰山系。その北面に如意輪寺があり文字通り山号も「中津峰山」。
 徳島市に隣接すること、比較的低山であることから、林道やハイキング道が整備されているので訪れる人の多い山。如意輪寺には「星の岩屋」方面からでは、「婆羅尾林道」、ちょっと変つた名前の大規模林道を登ることとなるが、曲がりくねった道。幹さん愛するモビリオが苦労するのが見てられないから、一旦戻って中津尾根の北側、徳島市側から登ることとした。
 勝浦川を下流へそして野上橋を渡って金谷川沿いに中津峰への林道を登ると如意輪寺の駐車場。50台くらい止められる。ここは中津峰ハイキングコースのスタートでもあり案内の看板が沢山。
木立は紅葉の真っ只中。
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 参詣者はなく幹さんだけ。食堂が営業しており、お客の多い日もあるのだろう。
 適当に車を止めて参道に向かう。
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石段を上がったところに沢山の仏様が並んでお迎えになっている。
幹さんの守り佛「勢至菩薩」も。
そこを上がるといよいよ山門。急な石段の遥か上に鐘撞き堂兼山門が見える。実に見事な石段
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 山門は大壁つくりではなく、板が貼り付けてある
本堂は更に上、

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本堂は屋根の吹き替え中。大きな仮の屋根に覆われている。
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本堂の隣の地蔵堂では「もみ」の判定が行われるらしい。早稲は8分・晩生は7分とか書いてある。竹の筒に入れて占うらしい。
 本堂の内陣で納経を済ませ、ご住職にお話を聞く。
南北朝の時代に焼けたらしいが、本来は7堂伽藍を備えた大寺院らしい。阿波の藩主に支援されて再建。現在の姿に成った。
本来、阿波藩主が支援したのは、隠密警戒と付近の膨大な森林資源・鉱物資源を守る拠点としてらしく、当時から昭和になる前まで「遍路を追い返した
箒を持って追い返す」状態だったらしい。
 境内には大師が、この地へ「お茶を伝えたいきさつが書いてあった」

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静かな境内から遥か東方を見張らせるところに「高野山遥拝所」の灯篭があった。

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 遥か洋上を超え大師の終の棲家に向かって遥拝できる場所なのだろう。
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境内は紅葉の盛りまた落葉の真っ只中。お手伝いの人が落ち葉を集めるのにおおわらは
四国徳島、星の岩屋 から仏陀石へ
 星の岩屋でローソンの弁当を平らげて、アベックの後を追うように中津峰山へのハイキング道を登り始めました。始めはゆっくりと、段段に石段道に、20分も杉林の中を歩くと。石積みのトンネル(1.0*1.5M程度)がありその上に石佛が安置され「佛石」とある。ここから更に登ると2キロで中津峰の山頂。左に下ると200Mで「仏陀石」の看板 やっと登った道を今度はひたすら下る。杉林を終えた頃、荒れ果てた林道に出た。「この桜は・・・が植えました」の看板の裏に、[仏陀石はここから100Mで左へ」。と落書きに近い案内文字。   
 砂利石交じりの林道を歩くと杉の森。左下手のほうへ降りる石段があり一段下へ降りると「仏陀石」
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 大師が四国巡錫のみぎり、山上に輝くものを見られて奇異に感じ翌朝渓谷を登ったところ、高さ百数十メーターの巨岩の上に両曼荼羅の諸仏が現れた。大師は歓喜され人々に信仰を勧められた。これをご縁に後世の人がこの巨岩の上に七十三尊の仏像を刻んで安置したもの。
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その巨岩の上に安置した」とあるが、幹さんは峠から下ってきたから、岩山の頂上という感じではない。立派なお姿の仏像が狭い台座の上に積み上げられている。「古色蒼然」と、」宝形印塔が尖がった岩の上に安置され、その台座に謂れが書いてあるとのこと。
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 鬱蒼とした森の中の仏像の積み重ね。何か気持ち悪いところ。付近には巨岩で出来たトンネルやお墓のの様な石積み。神秘的なところ。再びもとの道に戻って社務所みたいな建物に手を合わせて、もと来た道へ引き返す。
 200Mの登り返しそして15分のくだり再び「星の岩屋」の巨岩と赤い橋に戻ってきた。アベックは途中で引き返したらしく。峠でへたり込んでいたが帰りの姿は見なかった。
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 中津峰山如意輪寺は仏陀石への峠から2時間更に下って1時間。歩いていくと日が暮れる。幹さん愛車モビリオに頼んで大きく迂回し反対側から如意輪寺へ向かう
四国徳島 取星寺から「星の岩屋」へ
 小山の頂上のお寺、取星寺から、らせん状の急坂を降りて清流で名高い「那珂川」沿いに西進。紀伊水道から直線的に西進していた「那珂川」が大きく蛇行を繰り返す最初の大曲で那珂川と分かれて北上、今度は「勝浦川」を目指す。
 昼ごはんの場所を道端に探しながらすすむが「みかん農家」ばかりで食事場所の無いところ。やがて勝浦川に行き着く。三叉路のローソンで弁当を買う、が弁当を買う客が多いのか、売り切れ気味。皆さん食事場所が無いので、困ってるんだ、弁当の一人勝ち・・・
 勝浦川も清流。勝浦の地名はみかんのブランド名「勝浦みかん」の看板が多い。対岸が遠く見えるほど川幅が広いところで川を渡る「星谷橋」。星の岩屋の看板は全く無い。みかんを積んだ軽四のおじさんに道を聞くと、親切に「このまままっすぐ」と。すれちがいの出来ない急傾斜の深い谷沿いの細道を登り始める。幹さんのモビリオ、苦労をかける。叱咤激励ばかり。
 周囲はみかん畑ばっかり。色づいたみかんがたわわ。所々に小さな看板が見え始め、進む方向に間違いがないことを確かめつつひたすら上昇。 文字通り上昇に近い急傾斜。快晴の道だからいいものの濡れていたらスノータイヤが必要な道。
 最後は車幅一杯。停車して左下を見たらずーと下のほうまでみかん畑。登ってきたんだ。
「これより徒歩200M」の看板の幅10M程の広場で向きを変えて駐車。
 コンクリートの道を更に登る。
やがて前方に巨大な岩盤が見えてくる。
星の岩屋へ到着 
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最初に見えてくるのが「不動滝」巨岩の間から水が迸っている。
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 不動滝の手前に大師堂があり大師堂から滝を見ると滝の裏側へ通じる道がついている。この滝の裏側を見られることから「裏見の滝」とも言われる。修行の場らしく滝水の落ちる場所に人一人立てる岩場がある。
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 滝の裏側のくぼみには沢山の祠がある。
小高いところに本堂があり、ここは大師が天空に現れた悪星を7昼夜秘法を修されて失墜された所。大師はいくつも星を落としてるのだ・・・・
 本堂の前の岩山には大権現様が祭ってある。一人でいたら一寸気味の悪いところ。こういうのを「幽玄神秘」って言うのかなー、ここは無住ののお寺。 そりゃあ、怖いわ。
 ここでローソンの弁当。紅葉真っ盛り人影なし無人の庫裏の縁側の石に座ってお昼。前の道は、この裏山「中津峰山頂へのハイキング道」
スカートをはいた女と革靴のアベックが弁当を持って登っていった。何しにいくのかなー、幹さんここにいたから更に奥を目指したのかなー。
 過ぎ去った幹さんの青春と照らし合わせた
立江寺から奥の院「取星寺シュウセイジ」へ
 恩山寺と立江寺周辺平野は徳島の3大河川。「那珂川・勝浦川」によって出来た三角州。広大な平野、穀倉地帯。
 立江寺から1里ほど離れた小高い山「龍山」に現れた悪星を秘法によって打ち落とした。その残骸を収めたお寺が「取星寺」なんか出来すぎている感じもするが、信心深い幹さんは疑うことはしない。その寺が19番立江寺の奥の院
 そこを目指して一路南へ、途中JR牟岐線の踏切を越える。牟岐線は徳島から太平洋沿いの阿南海岸、牟岐町の先まで結ぶ単線の線路。国道55号線が整備されるまでは、陸の孤島に近い阿南方面の重要な路線であり、戦時中は国防上非常に大事な線路だったのだろう。険しい海岸線沿いにトンネルの多い路線
 立江から5キロほど、取星寺は小高い山の頂上にありました。
 小さなお堂が庫裏の前にありました。ご本尊は察するに「隕石」か。解説には本尊と合わせて妙見大菩薩を収めてあると。
納経は隣の「庫裏」と思われる建物で。
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 表には南国らしく大きな「蘇鉄」が葉を茂らせていました。
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隣には「明現神社」と称する大きなお宮さん。取星寺と明現神社の間には土地争いがあったらしく立派な石碑にいきさつが刻まれていました。もともと神仏合体で仲良くなさっていたのでしょうし、神仏共に人間界と異にする世界の方々なのに、人間界の争いをあの世まで持ち込んでいるようで、「みっともないことこの上ない」幹さん単純だから、そう思いました。小さな石碑がそっと一つ。ならまだ解るけど、1M角近い石碑がいくつも。根の深い争いを神様仏様の名前でしておられました。南海大地震で一発に地形が変わったら、また大争い。「懲りぬやつらだ」
 明現神社は大きなお宮さん。
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 大師堂を探しましたが見当たらず大師の石像にお参りしました。

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大日如来の像の後方に小さく見えるのがお大師様
 小高い山を降りて、またお昼。でもこの辺りは農村地帯。どっこにも食い物やさんは無い。一路今回のメーンエベント、「星の岩屋」に向かう。
 
お京塚から四国阿波の国の関所 立江寺に向かいました
 お京塚は荒れ果てた感じ、立江の町から2キロ程。犯罪者として前非を悔い、お地蔵様にすがって後半の人生を「オンカカカビサンマエイエソワカ」と、ご真言を唱えて生きたのであろう。集落からかなり離れた地でひっそりと、生きた姿に哀れを覚えた。
 新町芸者として鳴らしたほどの女性、田舎では目立つほどの美人だったのだろうが。
 遍路道に沿って立江の町に向かうと「お遍路接待所」の看板があった。「お泊りも出来ます」とも、民宿らしい横目で眺めながら立江の町へ入る。
 立江町は門前町。立江寺を中心に街づくりがなされている。お寺への案内にしたがって町へ入ると、いたるところに「私営駐車場」の看板。小さな空き地も、お家の前の空き地も、遍路の駐車場。ここのお寺には無料の駐車場は無いらしい。門前のお家に車を入れて駐車料200円を支払う。
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 すれ違うのがやっとの狭い道に面して大門があり参道が続いている。
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 本堂で納経し仰ぎ見ると、天井一面にカラーの丸い花の絵が描いた板がはめ込まれていた。勿論内陣もびっしりと。
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 鳩が入って絵を汚さないように、端から端まで何本もの釣り糸が渡してあった。境内は狭くって且つ植木が多く1見鬱蒼とした感じ。
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 片隅にお京さんの「髪の毛を捕まえた、梵鐘の引き綱」を、収めた小さなお堂がある。中をのぞくと「綱に絡んだ黒髪が見える」ほんまなんやー。幹さんびびった。髪が薄くてよかった。正式な名称は「肉付き鐘の緒」って言うんだ。皮ごと取れたのかなー。
 ここにも勿論「賽銭箱」がある。何でかなー?
立江寺の門前50メーターほどのところに有名な饅頭屋さんがある。甘いのはあまり好きでない幹さんは無視して駐車場へ向かった。
 まずは良かった。阿波の国の関所寺無事通過。いよいよ今回一大目標の「星の岩屋」に向かう。
四国徳島18番恩山寺からお京塚へ向かいました。
 恩山寺を出て遍路道は700メーターほど離れた「紫雲山・釈迦庵」と呼ばれるお寺にお参りすることとなります。恩山寺の納経所で道筋をお聞きしたら「もう廃寺になっています大事なものは全てどこかへ安置されました。何にも無いですよ」とのこと。四国最古の佛足石があるはずなのに。残念。一路19番徳島の関所「立江寺」へ向かいました。
 道中に関所寺を越えられなかった、お京さんの物語のお堂「お京塚」があります。「塩瀬橋」の手前。の字がつくのは、海岸がここの近くにあったことを物語っています。
 2車線と歩道の広い道の山側にひっそりとお堂がありました。
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大阪の新町芸者であった、お京は馴染みになったお客の「要助」と出来て駆け落ち。お京の郷里で夫婦となった。しかしお京は鍛冶屋の主人と不倫し、夫の要助を殺してしまう。鍛冶屋の亭主とお京は讃岐の国に逃れ、そこで更に逃げるため「四国遍路を思いつき」19番「立江寺」までやって来た。しかしここは関所寺。本堂の前で一心に真言を唱えるお京の髪が突然逆立ち、天井から吊り下げられた梵鐘の紐に絡まり動けなくなってしまう。関所寺で不義密通殺人の天罰が下った瞬間だった。
 助けられて大いに懺悔したお京は、小さな庵を建てて一心に地蔵尊を念じこの地で一生を終えた。そこに「お京塚」がある。「遍路に発心を聞くな」との言葉がある。いろんな事情で歩いている。沢山の遍路が一人づつの動機で。お京塚はそんな遍路の心を思わせた。
 遍路の道筋の国ごとに一箇所の「関所寺」が設けられている。「徳島阿波の国」では19番「立江寺」ここから1キロ。遠くの集落に大きな甍が見える。あそこが立江の町「立江寺」
 お京塚にお参りして、幹さん「自分は大丈夫だろうか、人に言えない悪いことも一杯しているし、過去の懺悔も充分でないし、通れるだろうか」心配。でも通りこさないと次が無い。何とか成るだろう、と立江の町に向かった。

テーマ:(´-ω-`) フゥ… - ジャンル:日記

四国徳島18番札所「母養山温山寺」にお参りしました
 弘法大師 お杖の水、の霊所から西の方へ約3キロ。行基菩薩が開基されたと伝えられるお寺、ご本尊は行基菩薩作の薬師如来。徳島の平野から、ちょっと山手に入ったところ。お寺への道の入り口に「義経上陸の地」の大きな石碑が建っています。
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かってはここまで海岸だったのか。ここから屋島へ攻め入ったらしい。昔の人の健脚には驚かせられる。やや細くなった道を登っていくと古びた山門があり歩き遍路の草道に続いている車道はその横を通る。IMGP1734.jpg

なかなか珍しい老木「ビランジュの樹」別名「博打の樹」何で博打なんだろう。
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 お寺はまだまだ奥にある。遍路道は切り立った山の肌を縫うように車道から離れ高巻きしている。やがて駐車場。ここから急な坂道を歩いて登る。息が切れる頃。眼前に巨大な大師像が迎えてくださる。この大師像の建立の由緒書では「このお寺に病気平癒で日参したら全快した米寿まで生きられた。感謝の心で建立した。とか

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 ここは女人禁制のお寺だったが大師が逗留し修行中。お母さんが訊ねてこられた。しかし女人禁制でお寺へ入れない・そこで大師は17日間にわたって女人開放の秘法を修され成就。お母さん「玉依御前」を寺にいれ親孝行をなさったとか。勝手な感じもする。お寺とお大師様。しかし親孝行が大切との話を理解しようと幹さんは納得した。

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 山門はさっき通り過ぎたビランジュの大木の傍にあったのでここには無い。すぐに本堂へと通じている。
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 本堂は札所のお寺ではこじんまりとしている。大師堂も同様で、大師堂に寄り添うように「御母公堂」が建っている。いかにも仲がよさそう。この御母公堂には玉依御前が剃髪したそのを納めているとか。大師と玉依御前の親子愛はこの寺以外でも何箇所かで知ることと成る。おっかさんは偉大なんだし、子供にとっても最愛のものなのだ。幹さんも身にしみて解る。末っ子だもの。ではおとっちゃんはどこへ出てくるのだ。昔の偉い人は奥さん以外に女性がいたから、大師も生母に気を使ってるのか。良い時代だったのだ。

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境内は2段になっており高いところに本堂一段下に大師堂
四国徳島の眉山から大師お杖の水の霊跡へ
 如意山地蔵院を後に昼食場所を求めて眉山山頂の「かんぽの宿」に向かいました。
 幹さんちを8時30分ころ出発し、北陸道・名神・阪神・明石海峡・淡路島と、間に朝食を挟みながら、走り続けると徳島の駅前に12時。
 徳島市内はファミレスの無いところ、高級そうなお店と、哀れそうなお店そして焼き肉屋。次の目的地に向かっている道中で探すが見当たらず。お昼が過ぎて1時過ぎ。眉山の山頂に「かんぽの宿」あるのに気づいて、駆け上がり。「レストランはまだやっていますか?」と飛び込んだ。「はい」お返事は良かったがメニューは、品切れ気味。でも「天麩羅御膳」がいただけた。
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 さすが山頂、素晴らしい見晴らし。南は小松島から太平洋。北は吉野川から香川県の山まで。ここへ巡拝する道中が眼下に広がってる。そして小松島方面はこれから訪とづれる道筋。本日快晴雲ひとつ無し。でした。
 食堂は3時までとのこと、ゆっくり食べてロビーでお土産やさんを眺めていた。ここは昼間はお風呂と休憩が出来るところ。おじいさん、おばあさんが20人ばかり、ロビーを占領。しかし次々とタクシーが来て4.5人ずつ、よたよたと乗り込んでいく。3時になるともう、今晩宿泊の老夫婦がフロントへ。「もう一寸待ってください」フロントマンも忙しそう「今日から3泊ですね」聞くともなしに聞いていると「連泊」 きっと「早よ行って」「早よ行って」と、足元の明るいうちに若嫁に叩き出されてきたのだろう。背景を勝手に想像して笑みをかみ殺した。「不殺生」と十善戒に書いてあるのに、幹さんの不信心には困ったものだ。
眉山を下ると一路国道55号線。徳島の幹線道路。徳島市から海岸よりに室戸岬さらに高知まで続く道。南小松島を目指して走る。徳島市内を離れると4車線の道は楽々。南小松島警察署の裏手。地図から読める概略の位置。とりあえず警察へ。訊ねる窓口は「交通課」道順を教えてもらって出発。「弘法大師お杖の水」は、昔この付近は海岸地帯。どこを掘っても海水しか出なくって難渋していた。大師はお杖を持って真水の湧き出る水源を探し当てられた。
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 石像の前にステンレスの蓋があり、その中に井戸があるらしい。しかし今は枯れ果てて出水はなし。幹さんみたい。

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 この付近の海岸から西方の山手まで約2キロ。西の山手にある18番札所「恩山寺」の登り口に「義経上陸地点」の史跡がある。この事からかっての海岸線は山手に近く、この辺りは干潟や入江・内湖等であったのだろう。
 今は出なくなった「お杖の水」付近の人たちはしっかりと維持管理なさっていてくださると見えお花が生き生きとしていました。




四国徳島の眉山を南に抜ける間道にある「如意山地蔵院」へお参りしました
 江戸時代阿波藩主蜂須賀氏が城下を防衛するため通したといわれる重要な道沿いに「如意山地蔵院」があります。境内前面に大きな溜池があり雄大な景観の名刹です。
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 遍路は17番井戸寺からこの道を通って18番恩山寺へ向かう道、眉山の小高い峠を越える道で「地蔵越え」と称したとか。蜂須賀氏は背面に広がる広大な山林資源を守るため「厳重な隠密警戒」をしたことから厳しい詮議を受けつつこの山道に挑んだ。
 地蔵院は今から1200年も前、大師が建立された。当時は観音寺と称されたが一時廃絶し後、藩主 蜂須賀氏も支援し地蔵寺となった。
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境内は広大で非常に美しく整備されています。
地蔵菩薩がご本尊だけに、安産の祈願所として有名で信者も多い所。
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 境内入り口左手に小高い土盛りがあり「穴不動」と呼ばれる古墳。徳島県唯一とのこと内部が拝めるようになっており、巨石の組み合わせがよく判る。

 境内には、生まれ年の干支にちなんだ仏様がずらりと並ばれており、幹さんも午年のご担当の仏様にご挨拶を申し上げました。

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 綺麗な池には金持ちのお寺らしく「黄金の色をした鯉」が群がっていました。
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 幹さんが近寄ると「餌が欲しいのか」寄って来ましたが、幹さんも昼飯前。お互いに我慢をしようと「言い聞かせました」。
 
淡海生涯カレッジ長浜校終了しました。皆出席です
 淡海生涯カレッジ長浜校の終了式に出席しました。全18回お陰さまで皆出席できました。でも居眠りの時間は厳密には効果が無かったから大きなことは言えません。
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 最終の講義はバイオ大学の教授。バイオでの最初の講義でご講演いただいた先生。広い視野でお話くださる、一寸早口の先生。
 演題は「DNAは嘘をつかない」DNAの機構を解りやすくご説明いただけた。更に個人ごとに異なること。親子の間には隠しきれない「相関性」があり99.9パーセントの確率で親子の識別が出来ること。DNAの形状は読み取ることが出来たが、それぞれがどんな活躍をしているか、解っているのははずか2.5パーセント。残りの97.5パーセントは「何でこうなっているか」これからの研究だって。これからの研究で個人の寿命までわかるかも?。
 だから究極のプライバシー。倫理が問われる世界。
第一線の研究者でありながら、幹さんみたいな凡人にわかりやすく解説してくださり、また的違いの質問にも丁寧にご回答くださる受容範囲の大きな先生。
 教育者と研究者の2面をしっかりと持っていてくださる方。最後におっしゃったDNAから凡人と天才が見分けられるか。もし解ったら凡人は努力の仕甲斐が無いのかには「DNAは人間なら皆同じ、出生後の環境が大きい」だから親は「育児の環境」をしっかりと整えなさい。子供は「努力しなさい」。
 また人間の身体構造は、体に毒になるものを「対外へ排出しよう」とする。たとえば、水銀は「髪の毛に、爪に」と妊婦はこの機構から「胎児に排出しようとする」と。大切なんだ知識を得ることは。
 


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 講義が終わって終了式。のんびりと長々とご挨拶された総責任者。ゼンマイが巻き足りなかったかな、と思えるほどの間延びしたお話。終わって着席されたが、椅子が教壇の端1センチのところ、それが身動きされるたびに、微妙にずれる「あっ、危ない」幹さん見かねてお世話の職員さんに「間もなく転落」と通報。  よく考えてみたらスローモーションの話しぶりの総責任者だったから、転げ落ちるときも、スローモーションかも、・・お節介だったかな。
 2番煎じのような関係者の方の挨拶が終わって。反省会と懇親会。
終わって気楽な感じで皆さん活発なお話し合い。「生涯勉強のきっかけが出来てよかった」幹さんも「同感」 
四国徳島の眉山(ビザン)の北面にある峰の薬師「法谷寺(ホウコク寺)」へお参りしました
 徳島市の中央に突出している、眉山は標高270M程度の山。でも麓が海抜0Mに近いから長浜の横山を眺めるよりも遥かに高い山に見えます。
 山頂にはかんぽの宿と、ロープウエイの塔があり、市内各所から良く見え目立つ山です。
 この眉山は阿波藩主蜂須賀氏が城下を防衛するため重要視し、警戒したといわれています。眉山から続く山系は蜂須賀氏にとって重要な山林「御用林」でありその防護と、スパイ「隠密」対策のため遍路の立ち入りをきつく制限したといわれ。当時は遍路の入山を禁止したお寺が山中に沢山あるそう。
 そんな眉山の北面の麓に「峯の薬師様」と親しまれている、「法谷寺」があります。
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 眉山へのドライブウエーの、登り口から別れ東へしばらく進むとお墓の傍に参道があり「法谷寺」へと入ります。
 聖徳太子の頃とか、行基菩薩の建立とか非常に歴史のあるお寺。弘法大師もこのお寺で入山し霊場とされた。謂れのあるお寺。

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 四国を兵火に巻き込んだ蜂須賀さんによって幾たびか焼失。七堂伽藍は本堂を残すのみと成ったが蜂須賀さんが全て平定したのち、再建された
 徳川以降の近年厄除け祈祷の寺として大いに栄えたとか。何でも蜂須賀さんの兵火に会ったとき。ご本尊薬師如来は自ら兵火を避けて境内の大木の二股になったところへ、飛び移り避難されたとか。一説に「二股観音」の異名も。
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 大師は入山し三蜜伽相応の霊地としてここで真言密教を開かれたとか。
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 大きな仏足がついた石があり法輪をまわしながら祈るらしい。

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大師堂は見当たらなかった。だから修行大師の像に頭を垂れた。


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 有り難いお水があったので、幹さん感謝していただいた。また健康長寿が叶えられそうだと思えました。
 参考にお薬師様の御真言は「オンコロコロ センダリ マトウギソワカ」です。
 一度だけでは駄目。7回唱えて戴きます。
朝の散歩コース。晴れたら歩きます。
 幹さんの朝の散歩のコースは曇りと晴れ専用です。幹さんちを出て、最初の角を曲がると、お宮さん、幹さんもここのお宮さんの氏子です。日の出30分前の薄暗い頃に出発しますから、ここでは暗がりの祭神に向かって朝のご挨拶です。すぐに人家が途絶え一方は大きな運動公園予定地。いまはグランドゴルフ場になっています。勿論人影なし。反対の右手は最近出来た、今流行の「ゲストハウス」結婚式場です。ここも無人。人影の無い薄暗い道を進むと古本屋さんや、100円ショップ・弁当屋さん等の郊外型の集合店舗。ガランとした駐車場を傍若無人に斜め横断して。昔鉄道馬車が走っていた県道に出ます。この時間ここも無人無車。斜め横断で距離を稼いで反対側へ。やがて長浜で一番の化学工場へ。ここは24時間操業。俗に連続3交代の工場。樹脂の匂いをかぎながら工場の間の道を通れ抜けます。耳につけてるラジオもこの間は雑音だらけ。この辺りまでで約15分。体が少し温まってきます。工場から少し離れるとラジオの雑音は消えます。工場の塀に接して建っている民家は「どんなもんじゃろ」匂いと・雑音と・機械の音と。我慢なさっているのだ。幹さんごとき通り抜けていく、旅人は口出すことではない。
 しかし樹脂の匂いがする
工場を離れるとすぐ民家、皆さんこの時間はまだ布団の中。この辺りまで来ると時々すれ違う人と出会う。幹さん、原則として「帽子を取って会釈をする」気づこうと、気づくまいと気にしない「幹さんの流儀」無言で丁寧に会釈。中にはびっくりして丁寧にお返ししてくださる方もある。
 無視されることも多い。
やがて日赤病院に至る。ここが幹さんの目標。正面玄関のところのベンチでしばし休憩。眠れない患者さんがあるのか、何時も何人かたむろなさっている。幹さんは健康・彼らは病気。同じ朝の迎え方でも、向かえる心が違う。健康に感謝。ここまで歩けたんだから。
 いつまでもたむろして入られない。新聞が配達される時間が来る。
帰路は主として町外れの田園地帯を歩く。花を見たり。野菜を見たり。時には国道まで大回りして帰路につく。出発したとき横目に見た運動公園のグランドゴルフ場を斜めに横切る。快晴ならここで日の出

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 いつ見ても朝の一瞬の日の出は素晴らしい。このグランドゴルフ場からは天気さえ良ければ、湖北の高山が一望。湖北の「横山岳」「金糞岳」「大吉寺山」「伊吹山」「霊仙山」いずれも高い。
 日の出が素晴らしいと手を合わせたくなる。自然の中に神々しいものが溢れているからか。幹さんの朝の散歩所要時間1時間。道草食っても1時間10分程度約8000歩か。
 明日も良い天気であれ、毎日歩きたいから。




お骨収めに大通寺へお参りしました
 大通寺は浄土真宗東本願寺派の長浜別院。大きなお寺です。御坊さんとお呼びするほうが解りやすい。昔は「夏中さん」で馴染み深いお寺でした。今年の夏もかっての夏中さんを味わいたくお参りしました。暑い最中でしたが独特のゆったりした時間が味わえたのを思い出します。
 その大通寺に義母のお骨納めにお参りしました。
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お花さん狐」の伝説の宗務所から入り細長い部屋へ案内されました。大きな建物は周囲が全て、「襖」窓の無い鬱陶しいお部屋でした。本日の「お骨収めは」4組。それぞれに骨壷を携えてお見えでした。
 開始の時間を待つ間にロビーをうろうろ探検していると「幹さん」と呼びかけられました。一瞬わからずじっとお顔を拝見すると、幹さんが48年前入社した会社の事務員をなさっていた先輩。当市内の人だけど、全くお会いする機会が無かった。何年ぶりか。よく覚えていてくださった。懐かしいお顔。当時の面影がしっかりと思い出せました。
 彼女ここでボランティアらしく元気な張り合いのあるお顔でした。
大通寺の本堂たたみ150敷きの大広間に案内され、まずお骨収め。僧職の方が「代表の方こちらへ」と本堂左手から裏手へ。でも幹さんたちお付き添いは大広間で待機。どこへ・どんなところへ、見たくってついて行きましたが、ぴしゃりと扉を閉められました。残念。
 間もなくお経が始まりました。始めはなじみのない「あー−−−う−−−お−−−と意味不明の大きな声が続き、続いて「仏説阿弥陀経」が始まりました。
 「ガンニシクドク・・・」が始まると間もなくおしまい。正座に戻って拝礼し終了。「毎朝朝事でお祈りしているからお参りしてください」
 とのお言葉を戴いて仏事は終了お寺は「一豊・千代博覧会の会場」こちらも是非ご見学を、とのお言葉も戴いて見学しました。
 さすが別院規模の大きな建物と多くのお部屋に感心しながら一巡りしました。
 境内は正に秋。菊花展の真っ最中。


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菊の花は難しいとか、でも立派な大輪の菊に見惚れました。
 10時前になると境内は観光客がぞろぞろ。
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 車も一杯。さすが観光地でした。
お骨収め。お仏壇においてあった本山、阿弥陀様のお近くに安置する行事。これでなきがらを焼き、二つの骨壷に分けていただいたお骨は、お墓に、阿弥陀様のお膝元にとそれぞれ所定のところに落ち着きました。
 めでたし・・なんでしょう所定の手順が踏めて落ち着くところへ落ち着いたのだから。お寺さんも「赤いろうそく」だったし。
淡海生涯学習長浜校理論学習講座 七回目、皆出席です。
 バイオ大学での理論学習講座、残すところあと2回。久しぶりの雨の中、出席しました。寒波襲来を思わせる冷たい雨の中を湖岸のバイオ大学へ走りました。前回の土曜日は学園祭。学校が多くの学生さんで大賑わいだっただけに、今回は休日らしい静けさ、生徒さんはチラホラ。ロビーのテーブルで何か難しい文書を開いておられる姿。
 今回と次回でこの講座も終了。半年間の勉強も終わり。しっかり聞かなきゃ。
 今回の先生はお若い助教授。女学生さんと、大して変わらない感じの美しいスタイル抜群のお方。見惚れる感じ。いるんだ頭も容姿も両方良い人って。そんな綺麗な可憐な感じすらする先生が「精子とか卵子とか受精まで」ぼんぼん出てくるんだ、赤面しそう。
 細胞研究「細胞機能学」って言うんだ、ご専攻が。 内容は聞いていると納得できるようだけど、ちっとも理解できない。が真相。
 皆一生懸命聞いておられる。幹さんも同様、でも何時もの病気が出て瞼と頭が下がる
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 お話は、腕を曲げようとする。曲がる。何で?
  筋肉が収縮して間接を介してこちらへ引き寄せる。
  筋肉は何で収縮するの。
  筋肉には無数の細い筋がある。その筋もまた細い筋で出来ている。
  その筋は細胞で出来ている。
  細胞の中で伸縮するタンパクがある。
このように細胞には動いて仕事をするたんぱく質がある。見てきたんだ超高倍率の電子顕微鏡で
 この細胞たんぱく質には3種類が解っている。
  筋肉の場合異質の繊維の中に絡みながら伸縮するミオシン
  精子の尻尾のように回転させる ダイニン
  筒の中に入り込んで物資を輸送するキネシン
これらの活動があるとき消費される成分がある。アデノシン三燐酸
 何んで。何んで。を突き詰めていけば行き当たる。それを更に何んでと調べる。これらの研究を「基礎研究」というそうだ。それを知ってどうなるの。何か開発できるの。って質問したが「何に繋がるかわかりません。基礎研究とはそう云うものです」「原理原則を明らかにすることで更にその上の開発が可能になる。
 先生は、静岡大学卒業。阪大大学院、東大の研究機関にも。基礎研究の先生って地味な研究をこつこつとやっておられるのだ。お姿からは想像できない研究内容、日本のこういう分野、しっかりとなさっていてくださる層の厚さ、感じられて
 先生の研究には大腸菌を使うんだって。大腸菌と聞くとトイレを思い出すが、先生のお話では研究用の大腸菌・・株。とかいう奴を。この大腸菌は純粋培養されすぎて、弱くって、この世の荒波では、多分生きていけないんだって。幹さんと似てる
 大腸菌は増やすのが簡単で小さなビーカーと恒温室があれば。
 それに人間の細胞によく似ているのだって。
 要するに研究費が安くつく。研究というものは大変なんだ。回収を当てに出来ない投資(研究)。なかなかお金が続かないのだろう。
 特に基礎研究は。
でも今日の講義は難解だった。あまりにも細かすぎて。きっとこの大学で、一から学んだら2年3年後に、この先生のお話は素直に理解できるのだろう。・・・か。
     
   
  
国友の花火の陣屋、見に行ってきました
 国友は幹さんちから約1.5キロ。この辺りでは大きな集落。国友も幹さんちの集落も大昔は神照村。村役場があったんだ。今では神照連合として自治会をまとめている。人口は約12000人長浜市が84000人だから、その14パーセント。そして今も増え続けている。そんな中で国友町は歴史的に有名な町。観光バスのコース。国友鉄砲が有名。でも花火も有名
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 昔は花火が盛んに揚げられたのだ。仕掛け花火や、打ち上げ花火、そのグループごとに「指令所・待機所」と成る仮設の小屋を現場に建てて競い合った。それを「花火の陣屋」と称し、互いに立派さを自慢しあった。
 そんな陣屋の一斉展示が国友の川原であった。幹さん走った。
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 大名の戦場の本陣の積りなんだろう。縄で巻いた筒状のものは花火を打ち上げる筒。口径が一尺はあった。

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 これは参考出品の大筒。口径は100MM程度。どこまで飛ぶのやら。

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 事故も多かったのだろう。神様も動員されていたらしい。
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大切に保存されてあったと見え実に美しい陣屋
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 雨の日は花火が無いので、快晴を前提にしているらしく屋根は簡素。

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 花火のグループは10組近くあったと見え今もそのグループごとに維持をなされているらしい。
 自慢できるものがあるのはうれしいこと。国友にはいくつも自慢できる物がある。地元の人たちは先祖の非常な努力の末得られた技術・文化であることを正しく理解されて、確りと伝承されている。そうして時折、私たちに公開していただける。驚きと喜び。
曲谷ダムへ行ってきました。紅葉はいま少し
 米原市の北の方。旧伊吹町曲谷。奥伊吹スキー場への道、甲津原の手前の在所。スキー場が出来道路が拡幅、更に曲谷の少し北に白龍湖と称するダムが出来て素晴らしいドライブウエー。ここが紅葉の名所
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 ダムの堰堤から周囲を見ると「全山紅葉」標高1000メーター近いことから近くの山頂付近はすでに落葉が始まっているみたい。でも谷間はまだこれから。
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 ダム周囲の山は全て落葉樹。杉ヒノキの植林が多くを占める中で、この辺りはびわこの水源涵養林になるのか伐採されていない。湖面からすぐ紅葉が始まっている。
 水面は遥か下、人気の無いダム周辺は動物の世界
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 真っ赤な紅葉以上に真っ赤なお尻をした野猿がウヨウヨ。自動車が通ると邪魔そうな顔をしてガードレールの下へ避けてくれる。中にはガードレールに乗ってこちらを見ているので、車を寄せて目を合わせると怖かったのかすぐ逃げる。失礼なサルだ。親分らしい大型は悠然と歩き、群れ全体に目を行き渡らせている様子がよく判る。決して自動車には近づかないが、怖がるそぶりは寸部も見せない。ガードレールに上がって幹さんと目をあわすのは、生後2.3年の若いサル。小猿も多い、しかし小猿は怖がり、すぐ走って崖を駆け上がり姿を消す。

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 「おサルのおケツはマッカッカ」とはよく言ったもの実に赤い。美しいくらい。動物園では、なんか汚いが、野猿は美しい赤さ。毛の艶もよく、こぎれいなサルばかり、道中だけでも100匹は下るまい。大きな群れ。
ダム湖の下方は紅葉がこれから。
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 曲谷の在所の中に「白山神社」がありここには大きな銀杏の木がある。この黄葉が見事でもまだ少し青い。後1.2週間後から素晴らしくなりそう。曲谷の下流に甲賀の在所、戸数10戸程度か。ここにも白山神社があり、ここの銀杏も見事。
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 白山信仰の盛んな土地柄か「白山神社」が続く
11月19日には曲谷の更に奥にある「五色の滝」を探検の予定。その頃にはきっと黄葉真っ盛りのはず。
 曲谷は石臼の生産地。良質の花崗岩を埋蔵することから昔はこの谷奥に一大石臼工房があったとか。11月19日はそこも探検。
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 サルが近くにいるのか、飼い犬が大声で吼え続けていた。彼らも疲れることだろう。

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湖北準四国八十八箇所第23番札所は南田付町にあります
 湖北準四国八十八箇所第23番札所は徳島県の第2番極楽寺を念じて置かれています。
 市内のアルプラザ長浜店の北側の道を東へ宮司町の総持寺の北を更に東へ南田付町に入ります。東よりに極安寺の三叉路がありその手前に安置されています。
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この通りは南小足の住宅団地と長浜市内を結ぶ幹線道路通勤通学の自転車・自動車がひっきりなしの狭い幹線道路。対向は困難。でも近所の人のお話では「大師堂の前での事故は一度も無い。お大師様のお陰」とか、確かに大師堂の三叉路は危険箇所。無事故はお大師様のご加護か。
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 ここのお大師様は美しい前掛けの様な布をかけられており、一見お地蔵様と見間違いしそう。

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 木立の中に隠れるように、でも通りを常に見守っていてくださるように思えます、ご近所の方も通りすがりに「ちょこん」と会釈するように祈られていました。

ハンギングに挑戦しました 我が家の庭です
 幹さん本日は泊まり明け。定年後の再々就職が24時間拘束の、お留守番勤務。その勤務終了の日。9時に終わって。合併で長浜市になった、南浜の産直売店 水の駅。 道の駅もどきに行きました。ここには長浜農業高校の生徒さんが作った花の苗が安く売っています。勿論種類はパンジーその他2.3種類。でも生きの良い苗がそろっています。平日は空いてるし買いやすいところ。
 25本ほどの色いろいろのパンジーを求めてハンギングに挑戦です。
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 つげの生垣は3年前定年退職記念に植え込みました。当時1.5M程でしたが、幹さんの豊かな愛情を受けすくすくと育ち今では2.0M近くまで、もうそろそろ身長の制限をせねばと考えています。
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 つげの枝が空いているところに、目隠しとして吊り下げるべし、で配置しました。春になったらきっと茂って、花満開になってくれたら。
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 花にはカリ肥料とか。骨粉を買ってきました。きっと狂牛病に掛かった牛の骨。・・・
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 御所車のイメージですが、牛を手配しないと、日曜大工で牛を作るべしで、JWCAD をインターネットで取り入れて作図に掛かっています、直線は得意ですが曲線が苦手で、牛の姿は曲線だらけで、・・・
逆説の日本史。の井沢元彦先生の講演会に行ってきました
 逆説の日本史でベストセラーの作家「井沢元彦先生」の講演会が長浜文芸会館でありました。「一豊と千代・長浜から高知へ」 戦国時代を駆け抜けた山内一豊の出世していく過程を講演されました。
 午後の講演はいつも半分は居眠り。これは淡海生涯カレッジの講演会で今や習慣化し、いかに努力をしようにもこの性格は直らないものとあきらめ、今回も半分でも聞けたらと、長浜文芸会館へ聴講に参りました。 主催は中日新聞の販売店らしい。新聞専売店のご主人がしどろもどろでご挨拶をされていました。そして先生のご登場。小柄ながっちりとした体格の先生。作家の先生のお話を聞く機会は少なく期待していました。
 感想は、実に見事。ものを書く文字で表現する。その後ろにはこれほどの情報を蓄えておられるのかと思えるほど。戦国時代の殆ど全てを見てきたようにお話になりました。あらゆる資料、歴史書・他の作家の小説・それぞれの地方の文献・そして現地の地形環境、等々。
 一豊が掛川城主から土佐高知の城主に、5万石から20万石に出世の糸口は「同僚の息子が親(同僚)から授けられた知恵を盗む」話。テレビでは「息子が発言の勇気が無く、見かねて一豊が発言」したようになっているが、実は一豊が抜け駆けしたもの。と先生は決め付けられていた。
 会場ほぼ7割程度の入り。ゆったりと聞くことが出来ました。不思議なことに、午後の講義の習慣化した居眠りは全く襲ってきませんでした。

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 また土佐に赴任した一豊は決定的な失敗行政を行った。5万石から20万石に膨張した任地支配と行政責任から家来を4倍に増やさねば家康の期待に応えられないことから。新規採用に勤めた。同じようなことが戦国の世ではあったらしく、家康は武田信玄を滅ぼしたさい。武田の家来を全て井伊家預けとし、彼らの生活を保障した。井伊家は武田の家来が全員赤い装束であったことから家康の意見で、井伊家の兵士も全て赤い装束とし「井伊家の赤備え」とし、真っ赤な軍団の塊として全体を強烈に印象付け相手を圧倒した・・わが国のユニホームの始まり
 一豊はかっての城主「蜂須家」が三成に味方して取り潰しになったことから失業した彼らが無法者として不法行為を働くことを警戒し首謀者78名を相撲大会に事寄せ、誘拐し暗殺したとか。優柔不断男と綺麗な嫁。この頼りない男結構ひどいことをやっているのだ。
 結果、不満分子が陰に篭って一豊は長く暗殺の危機に瀕し、影武者を置いたと記録があるとか。影武者の記録が明らかなのは一豊だけらしい。千代は暗殺を知ったとき激しく一豊をなじったとか。不満分子の存在に手を焼いた一豊は彼らを「郷士」と格付けしたが、名ばかりで武士でもなく、百姓でもなくの差別待遇だったとか。
 長く尾を引いたこの差別は、やがて水平社運動にまた、坂本竜馬につながっていったとか。坂本竜馬の祖先は明智光秀だったとか。聞けば聞くほどあふれ出てくる情報におぼれそうになりながら、気がついたら3時45分。短かった。ぜんぜん眠くなかった

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淡海生涯カレッジ長浜校理論学習講座6日目皆出席です
 淡海生涯カレッジ長浜校、バイオ大学へ行ってきました。大学は本日学園祭。学生さんが思い思いの催しものをやってました。たこ焼き・ジャガイモの炊いたの・ハンバーグもどき。せんべいに挟んだ得体の知れないもの。特設の舞台では、耳が壊れそうな音楽。室内では手品・漫画の本の販売・快晴で無風・丁度良い気温。大繁盛でした。

講義の部屋の前では手品。これが本職らしい。実に見事。講義の始まる寸前までここで見物。目の前で見てても不思議の一言。講義の内容も理解できないが、手品は必ず仕掛けがあるはず。目を凝らしてみてたが解らない。結果、講義の部屋へは遅刻。皆座っておられた。

本日は朝から近所の公園で「長浜農林水産祭り」珍しいものは無いかと一番に駆けつけた。パンジー・葉牡丹・もち米・鮎の塩焼き・注連縄
欲しいものを買って午前中はハンギング造り
 昼ごはんを食べてすぐ来たから。案の定、眠い。室外の大学祭からの大きな音が、そして先生の物静かな語り口が。じんわりと頭の中に忍び込んで、グッスリ。
 今日のお話は細胞の中のDNA 遺伝子の話、体を形作っている細胞の中の核には遺伝子があってそれをまとめて「ヒトゲノム」という。両親の遺伝子が子供に受け継がれて、両親に似た子が出来る。一つの細胞の中には、実際の寸法で幅2ナノメートル、長さ1.8メートルのDNA が存在する。  ここか実感としてわからない。2ナノメーターと1.8メートル。単位の差が大きすぎる。幹さんの背丈より大きなものが目に見えない細胞に入っているって。 ここで眠くなった。だからしばし空白

 気がついたら休憩となりのお友達が「休憩ですよ」と声を掛けてくださった。学園祭は建物の中の食堂でもやっていました。眠気覚ましの散歩をして後半に備えました。
 今日の話で記憶に残ったのは、ES細胞のお話。体を形づくっている細胞にはそれぞれ役目があって、心臓になる細胞は心臓に、肝臓になる細胞は肝臓にと。だから適当に自分の細胞から自分に必要な細胞は作ることが出来ない。火傷して皮膚移植するには、どこか別のよく似た皮膚の一部を切り取って張るしかない。でも人間が誕生する瞬間。すなわち受精の瞬間には男女それぞれ一個づつを持ち寄って始まり、それが分裂を繰り返し心臓に肝臓に目に手足にと拡大していった。なら、人間は本来何にでもなる細胞を持っているはず。これがES細胞探しの魂胆。だからこの受精の初期がヒントと皆が探すらしい。韓国で話題になった話し。受精したとたんの状況を再現しその中から何にでもなる可能性のある細胞を取り出す。正に神の領域に踏み込んでいる。幹さんの尊敬する、お大師様なら怒り出される。自然の摂理に従えと。観音様が弟子の舎利子におっしゃった「五蘊皆空なり」と。
 
阪急 上桂に行ってきました
 先輩のお悔やみに行ってきました。先日元の勤め先を久しぶりに訪れました。毎年同じ所属の方と「OB会」をやっています。定年前の10年ほどの職場が総務だったので、当時からお手伝いをしていましたが、定年後はそれが本職になったみたい。幹さんが感じているだけでOB社員の皆さんは特段感じておられそうにありませんが、在職時を引きづったまま今日に至っています。今年もOB会をする時期、会社の幹部の方の御臨席を仰ぐ必要もあり、日程の打ち合わせに行きました。そして名簿を確認していたら「あれ先日お亡くなりになったって誰かが言っておられた」調べていただいたら、6月の末にご逝去。随分経っているけど、お悔やみに誰かが行かなきゃ。在職中はそれがお手伝いの仕事だったけど、今度は誰も頼む人がいない。なら行かなきゃ。幹さん行ってきました。
 「上桂」は阪急嵐山線の沿線。ここからは遠い。10時の電車でと、長浜駅に行きましたが、朝の米原・彦根間の人身事故でべた遅れ。10時半に出発。新快速を京都で各停に乗り換えて、向町まで。ここは競輪の町、新聞を持った人がぞろぞろ降りてくる。駅前には競輪場行きのバスがたむろしている。金持ちらしき人はタクシーで。それなりの格好の人はバスに吸い込まれていく。儲かった人もいるんだー、しばし観察。
 駅前の道を「阪急東向町」らしき方向へ歩き出す。地図では500M程のはず。人影は少なく車の多い道「西国街道」を阪急の軌道を目指して歩く。やがて踏み切り。間違ってなかった。さてどっちに乗るのか。改札を探すが、全て自動、誰もいない。とりあえず阪急の嵐山線の分岐の駅、「桂」を目指す。桂まで2つ程、さすが京都大阪間は電車が多いすぐに乗れた。見知らぬ町を走りすぎる車窓を見ているのは楽しい。桂の駅で下車地下にもぐって嵐山線のホーム。ここは電車の本数は少ないしばし休憩。
 次の駅が「阪急上桂」住宅街の駅。ここは単線。電車がすれ違い待ち。 ここで12時。遠いんだ、先輩は長浜のくたびれた2階の間借りをしていたけど、こりゃ通えんわ。今ならまだしも、30年近く昔の話だから半日仕事だったのだろう。
 12時に訪問しては「飯の心配されそう」13時頃まで時間を調整する必要がある。飯屋を探してうろつくが住宅が主の町、食い物やさんが見つからず、いたづらにうろつくばかり。「また電車に乗って嵐山でも行くか」と駅へ戻ったら駅のそばに「阪急そば」が暖簾を揺らしていた。「訪問先探しに気持ちが集中していて見えなかった」いや、周囲を観察するゆとりを失っている。「年だー」。
 ここで昼食。ゆっくりと。そして地図を見せて概略の場所を教えてもらって訪問。
 「びっくりするわなー」見ず知らずの男が突然悔やみに来たんだもの。街頭と敷地内とでしばし説明会。
 でもさすが先輩の奥様、頭がいいわ、すぐに気ずかれて「どうぞ・どうぞ」町の家は仏間に至るまでうろうろ。案内された「先輩の写真に、お骨に」しばしお祈り、遅れた理由を口の中でもぞもぞ言っているのに、奥さんが次々と思い出を話されて、お祈りは上の空。相槌のほうが優先「なんたって現世優先だから」。
 改めて奥さんに挨拶して、すぐに失礼しようと思ったのに「昔の話がとめどなく」足がしびれて・・・・・奥様は滋賀県の愛知川出身。だから長浜は地理的にはご存知。
 長い話の一瞬の切れ目を取って、お別れのご挨拶。もう一度しっかりと拝んで、しびれて感覚の無い脚に「しっかりせよ」と檄を飛ばして玄関へ。
 上桂の駅についた頃には「足も元気になっていた」嵐山線を逆走し、桂の駅、そこから今度は「四条烏丸」へ、丁度いい具合に入ってきた特急電車。四条烏丸まで10数分か。便利のいいとこだ。地下鉄で京都駅そして新快速、帰ってきたら4時前。やっぱり一日仕事だ。
 先輩は享年81歳・死因は肺炎、糖尿病が持病として10数年の食養生。奥様も大変だったのだろうが「もっともっとお料理で長生きさせたかった」と。いいなー、立派な言葉。


 

四国徳島 16番札所観音寺にお参りしました。
 観音寺はJR四国の徳島線、府中駅の南15分ほどの街中にあります。この駅府中は「こう」と発します。昔、駅を訪ねたとき「こうけエー」といわれて納得できませんでした。「いえ府中です」と何度か繰り返し、理解できない自分に気づきました。それ以降得意になって「府中と書いて こう と読む。と徳島通に成っています。
 町の中に溶け込むように立つお寺が観音寺です。車がやっとすれ違える程度の道に面して大きな山門があり俯いて歩いているととおり過ごしそう。
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山門の両側は塀の変わりに石柱がびっしり。大きめの石柱には「金百円」その他の並みの石柱には「金五十円・参拾円」とご寄付の方の氏名が。信者の多いことが、金持ちの多いことがわかる。
境内は東西に長く南北に狭い。山門を入ってすぐ本堂。これが実に立派新築間もない美しさ。 

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 本堂の見上げるところに絵の額。女性が炎に包まれている図。昔女性遍路が雨にぬれて白衣を乾かしているとき、体に火がついて大火傷。皆で火を消して助けて話を聞くと「姑と折り合いが悪く柱にくくり付けて、火のついた木でたたいたことがある」とか.  しかし女性はこの日の火傷を「お大師様の戒め」と深く反省しこの絵を奉納したとか。その後どうなったかはわからない。
 大師堂は歴史を感じさせる建物。傍らに夜鳴き地蔵様がある。子供の夜泣き。大人の不眠症に利くらしい。
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 境内には八幡宮がある、神仏混淆の名残か珍しい。
ここは大河・吉野川と清流・鮎喰川にはさまれた地形。河川の氾濫も多くまた四国は長宗我部氏に焼かれた地。幾多の試練をくぐり抜けて今日があるのだろう。